募金をしたことがないという話 I've never donated money.

 

画像:Unsplash



私はけっこうボランティア活動をするほうだと思うのですが、みなさんはどうでしょうか。公園の掃除とか、誰もやってない道の雪かきとか、まあそんな感じのことが多いです。

そのいっぽうで、私は募金というものがかなり嫌いで、ほとんどしません。しかもウケることに募金活動はしています。今日はその奇妙な生態についてお話したいと思います。




ボランティアと何が違うのか

無償で何かを提供するという点では、金銭を提供する募金も、時間と労力を提供するボランティアも、同じことのように思えます。ところが私の場合、大きく異なるのはその目的です。

私がボランティア活動をする目的はシンプルに二つあります。ひとつは、自分の生活エリアを使いやすくすることです。もうひとつは経験です。ボランティア活動は、賃金労働にくらべて自分のペースや目的に合わせて、さまざまな経験ができるという利点がありますね。


画像:Unsplash


もうおわかりかと思いますが、募金をしても私の生活には直接のプラスが生じず、経験も発生しません。だからやる理由があんまりないです。エゴイスティックだろう? フハハ!!




奉仕はエゴだという自覚

募金にせよボランティア活動にせよ、奉仕する人すべてが自覚するべきことだと思うのですが、奉仕は人のためにすることではないです。自分のためにやっていることだと認識してください。

社会貢献は、社会をよりよくして自分の生活を向上させるためのものです。相互扶助は、困ったときに助けてもらうためのものです。人助けは、人助けをした満足感を得る行為です。私たちは、一生の間に、完全に自分のマイナスにしかならない行為をすることはありません。すなわち、すべての行為は自分の利益のためにある、そのエゴイズムをきちんと認識することが大切です。これ、奉仕だけじゃなくて恋愛とか子育てにも同じことが言えると思うんですよね。


ボランティアをしていても悪口を言われることもあるものです。もし人のために働いているつもりでいると、「なんで人のために私がこんなつらい思いをしなきゃならないんだろう」という気持ちに耐えられなくなります。

いっぽう、自分の目的が明確であれば、つらさと目的を秤にかけてみることができます。その結果、継続する、辞める、という選択を冷静に導けるようになるのです。




「利己の追求」こそが究極の「利他の追求」

「そんな利己的な気持ちじゃだめだ」と言う人がいます。「奉仕の心をもて」と。悪い言葉だとも思いませんが、それはマクロな考え方ができない人に対してのみ有効な言葉でしょう。たとえばお菓子を独占する子供とか。

大局的に考えれば、我田引水が最終的に損だということは明白です。信頼も地域全体の生産性も損なうわけですから。多くの人が経験的に知っているように、まわりの人がみんな不幸で、自分だけ幸せという状況はありえません。自分の幸福を追求することは、他人の幸せを追求することに直結します。

だから私はいっつも他人の幸せを考えています。自分が幸せになるためにね!


画像:Pexels




募金イヤ理由1:募金に依存する社会が嫌

さて、マクロに考えれば、募金することで困っている人が救われ、そのぶん社会が潤うことになるので、募金だって自分の生活の向上につながっているとも言えます。それでも私が募金をしないのには理由があります。最大の理由は、募金に依存した社会が嫌だからです。

自分が病気で働けなくなったときに、一部のお金持ちの人からのほどこしで生活できたとして、私は嫌です。いつも引け目を感じながら生きていかなければならないでしょうから。それよりも社会システムとして税金を取り入れ、必要な社会福祉は権利として享受する、そのほうが精神的に健全ですし、平等です。また、少数の善なる支援者に頼るよりも、社会全体で負担したほうが支援も安定します。


精神的に健全と言いましたが、これは完全に私の感覚での話です。たとえばイスラム社会へ行けば、施しは宗教的価値観と密接に結びついており、存在するほうが健全だと言えるでしょう。物乞いの存在そのものが尊いのです。イスラム社会はそれで何千年もやってきたのだから、そこに口を出すつもりはありません。ただ、私は今後のグローバルな社会のあり方として、別の形を目指したいと思っているのです。




理由2:際限がない気がする

目の前に飢えた子供がいたらどうしますか。多くの人は食事を与えることでしょう。私は与えませんが。私なら行政に連絡します。もし行政が何もできないなら見捨てます。

ひどいと思われるかもしれません。では、もっと多くの人が食事を求めてきたらどうでしょうか。あるいは、5km先の路地に同じように飢えた子供がいるなら、食事を届けに行くでしょうか。それにその子は翌日も飢えます。ずっと食事を与え続けることができますか。

誰だって、目の前で子供に死なれたくはありません。でもそれは裏を返せば、見えないところで死んでいく子供たちの存在には、同じように心を痛めることはできないということなのです。私は、目の前の一人にほどこしを与えて心の安寧を得る行為は、「俺に見えないところで死んでくれ」と言うのと変わらないように思えてしまうのです。


私は百円玉を握りしめて募金箱の前に立つとき、あの日、私に恵みを求めた裸の少年の姿が見えます。その向こう側に、幾千万人のストリートチルドレンの影が透けて見えるのです。


注:「目の前に崖から落ちそうな人がいたら、それでも救わないのか」という問いは、ここでは二つの理由で成立しません。第一に、崖から落ちそうな人を福祉で救うことはできず、自分がやるほかないから。第二に、今日崖から落ちそうな人は、明日また崖から落ちることはないからです。




理由3:無責任な支援はしたくない

もちろん、その場で金や食事を与えることと募金では、その用途に大きな違いがあります。その場で個人に寄付をしても、おそらくその場しのぎにしかなりません。しかしきちんと組織されたNGO、NPOに対して募金をすれば、活動費は貧しい人々の自立へと繋がります。その意味で、少年と募金箱を重ねることは正しくないでしょう。

ですが、募金箱にお金を入れるとき、そのお金がどのように利用されているかを把握している人は少ないのではないでしょうか。日本で実施されている募金だからといって、すべてが高度な計画に基づいている保証はありません。一時的に金をばらまくような、無責任な支援はしたくありません。企業が潤うだけで、現地の人々のためにならないような公共事業もごめんです。

私には、募金箱に小銭を入れる行為が、ひどく無責任な行為に思えてしまうのです。それはあたかも何も知らない人が、愛情から野生のクマに餌を与えるような。寄付するのなら、支援方法についてよく知り、自分も神輿をかつぐ覚悟でなければならないと感じます。


大げさだ、重い、と思うかもしれません。でも私は、軽い気持ちで募金すると、それでラクになっちゃいそうな自分が怖いのです。募金箱をスルーすると、なんとなく悪いことをしているような気がするから、小銭を入れて、免罪符を手に入れたような気持ちになる。するとあとは被災地のことも難民のことも考えるのを忘れてしまうのではないか……そんなふうに思うのです。

あの少年に食べ物を渡していたら、今こんなにも私は苦しんでいないだろうと思います。私から恵まれなかったことで、あの少年は死んだかもしれない。ずっとそう悩み続けています。その苦しみが、私が貧困から目を背けることを許さないのです。


画像:Pixabay




一人の人間が与えられる支援は限られています。だったら、たくさんの人の親切で支援すればいいと思うかもしれません。しかし、現実にそうでないから子供たちが飢えなければならないのです。少数の親切な人の善意だけではこの世は救えない。厳しいことですが、これが現実です。

では諦めて何もしないのかといえば、けっしてそうではありません。その方法が募金ではないと思うだけです。少数の善意だけで救えないのなら、多数の義務で救ってやろう、その仕組みを考え続けようと思っています。