『走れメロス』の本文異同と漢字の読み


 

『走れメロス』第2回。今回は本文異同をやります。あとは漢字の読み方ですね。

私は光村図書のメロスに慣れていたのですが、最近青空文庫のメロスを読んで、細かい所がいろいろ違うのに気がつきました。たとえば青空だと「シラクスの市」となっているところが、光村だと「シラクスの町」となっていたり。この違いはどこからきているのか気になったので、調べてみました。



刊行物まとめ

それにしても『走れメロス』が収録されている本は死ぬほどありますね。代表的な出版物を整理しましょう。


  • 初出   『新潮』1940年5月号
  • 単行本  『女の決闘』(河出書房、1940年6月15日)
  • 単行本  『富嶽百景』(新潮社、1943年1月10日)


この3冊は太宰存命中のもの(1948年没)なので、本人が校閲している点でもっとも信頼がおけますね。驚いたのは、ほぼふりがなが書かれていないということでした。今日出版されている教科書や児童書などにおけるふりがなは、すべて後世の人々によって打たれているということになります。


  • 『太宰治全集3』(筑摩書房、1967年1月1日)


光村図書の出典です。ちょっと古くて手に入らず、底本が不明です。たぶん上記3冊だとは思うんですけど……手に入ったら追記します。


  • 『太宰治全集第3巻』(筑摩書房、1975年11月10日)


この本が最高で、前述の太宰存命中の3冊の異同をまとめてくださってます。これを読めば異同がほぼわかります。本文は基本的に『女の決闘』準拠ですね。


  • 『太宰治全集3』(ちくま文庫、1988年10月)


これが青空文庫の出典です。底本は直前に挙げた『太宰治全集第3巻』(筑摩書房、1975年11月10日)です。現代仮名遣いに改め、読みにくい漢字にはふりがなを振ってあるので、現代人にもとても読みやすいですね。ただし、常用外の漢字についてはふりがなを振っていません。たとえば「低声」は当時の文章では「こごえ」と読むのが通例ですが、「ていせい」と読んだ可能性がゼロではない以上、後世の人間が決めつけることはできなということでしょう。その姿勢に気品を感じます。


児童書や教科書ではどうしてもふりがなが必要ですから、それぞれの出版社の考えで記述しているようです。「低声」については「こごえ」とする本もあれば「ていせい」としている本もありました。どれも正解だと思います。大切なのは、どのように読みが揺れているかを理解し、自分の考えをもつことですね。

それでは個別の検証、いってみましょう!



異同・漢字の読み

場面1 シラクスの市

  • 【女の決闘】シラクスの市 → 【光村図書】シラクスの町

「市」という漢字は、常用ではないですが「まち」とも読みます。ただし、ひらがなの「まち」が3回登場することを考えると、「し」と読むのが相当ではないかと思われます。『21世紀版少年少女日本文学館10 走れメロス・山椒魚』(講談社、2009年2月26日)の注釈では、「『市』を『まち』と読む説があるが、とくに根拠はない」としています。ちなみに文章中に漢字の「町」および「街」は出てきません。


  • 【女の決闘】間近か → 【光村図書】間近

「間近か」は誤字ではありません。青空文庫全文検索(2020年12月時点)では「間近」640件中、約10%の63件が「間近か」でした。坂口安吾、江戸川乱歩など同時代の作家に見られます。


青空文庫全文検索

https://myokoym.net/aozorasearch/


  • 石工

現代では「いしく」もしくは「せっこう」。文学では「いしや」、「いしきり」、「せきこう」もある。ふりがな文庫で検索すると「いしく」が75.9%でした。(2020年12月時点)


ふりがな文庫

https://furigana.info/


  • 寂しい

常用漢字表では「さびしい」のみですが、口語ではどちらも使いますよね。「さびしい」、「さみしい」を使い分ける決まりはありません。ただし、NHK放送文化研究所によれば、”「ひっそりした」と形容することも可能な場合には、「さみしい」を使わずに「さびしい」を使っておいた方が無難”とのことです。


  • 若い衆

「わかいしゅ」です。「しゅう」と読む人もまれにいますが、各種国語辞典の見出し語は「わかいしゅ」。


  • 低声

ふりがな文庫では「こごえ(こごゑ)」87.7%、「ていせい」5.6%でした。


  • 御子さま

「御子」は通常「みこ」と読むが、文脈上は天子ではなく子息であることを表している。「おこさま」がよい。


  • 【女】おまへには、わしの孤独がわからぬ → 【富】おまへなどには、わしの孤独の心がわからぬ

あ、これ光村図書では『富嶽百景』のほうを採用していますね。ということは、光村図書の出典の『太宰治全集3』(筑摩書房、1967年1月1日)の本文は『富嶽百景』版を採用しているということでしょうか。あとで調べよ。


  • 居る

「居る」は7回登場します。いっぽう補助動詞の「いる」は数え切れないほど登場します。したがって補助動詞の「居る」はこれと区別するべきでしょう。老爺が「悪心を持っては居りませぬ」、「命じて居ります」と言い、フィロストラトスが「信じて居りました」と言っていることから、「おる」と読むのがよさそうです。すなわち「疑って居られる」「気のいい事は言って居られぬ」は「おる」です。

一般動詞として用いられているのは「死ぬる覚悟で居る」、「羊も居る」の2箇所です。これらは『富嶽百景』では「ゐる」とかな書きになっています。一般動詞の「居る」を「おる」と読むといかにもあらたまった印象になってしまうので、この2箇所は「いる」が自然ですね。

確認できた限りで、いずれの教科書や児童書も同様になっています。


「なさけ」とも「じょう」とも読むので、文脈に合わせて「なさけをかけたい」、「みれんのじょう」と読むのがよいでしょう。


  • 奴輩

常用では「どはい」ですが、ふりがな文庫では79.2%「やつばら」でした。


  • 口惜しい

常用では「くちおしい」ですが、ふりがな文庫では「くやしい」が82.3%でした。


  • 相逢うた

「あいおうた」です。「おうた」は「あった」の少し古い言い方です。


  • 【女の決闘】此のシラクスの市 → 【富嶽百景】このシラクスの市
  • 【女の決闘】此の市 → 【富嶽百景】この市
  • 【女の決闘】律気な → 【富嶽百景】律儀な
  • 【新潮】あたりをはばかり低声に → 【女】あたりをはばかる低声で
  • 【新】はい。はじめは → 【女】はい、はじめは
  • 【女】短剣が出てきた → 【富】短刀が出てきた
  • 【新】いきなり立つて → 【女】いきり立つて
  • 【女】だまれ、下賤の者。 → 【光】黙れ。
  • 【新】居るのに、 → 【女】居るのに。 → 【富】ゐるのに。
  • 【新】私を、三日間だけ → 【女】私を三日間だけ



場面2 故郷の村

  • その夜

「よる」でも構いませんが、漢語的な文体に合わせれば「よ」がより自然だと思います。


  • 明日

同じ理由で「あす」を推奨。


  • 黒雲

同じ理由で「こくうん」でしょうか。いやどっちでもいいな。


  • 隣村

じゃあ「りんそん」かというと、さすがに耳慣れない単語なので「となりむら」が良いと思います。


  • 羊群

「ようぐん」です。


多くの国語辞典では「ほお」を主、「ほほ」を副としています。「ほほ」のほうが新しい言い方なんですね。


  • 呼吸

常用では「こきゅう」ですが、ふりがな文庫では「いき」が91.6%でした。


  • 未だ

「まだ」、「いまだ」の両方の読みがあります。「まだ」は単に未然の状態、「いまだ」は、完了しているはずの時期に遅れている状態を指します。ゆえに「まだ」です。


  • 揉み手

「もみで」です。


  • 【新】これからいつて村の人 → 【女】これからいつて、村の人
  • 【新】間もなく → 【女】祝宴の席を調え、間もなく
  • 【女】仕度・身仕度 → 【富】支度・身支度
  • 【女】空を覆ひ → 【富】空を襲ひ
  • 【新】お互ひさま → 【女】お互さま
  • 【新】私の家にも → 【女】私の家にも、



場面3 川の氾濫、山賊、挫折

  • 上る

常用は「上がる(あがる)」、「上る(のぼる)」です。作品中では「のぼる」はひらがなもしくは「昇る」で区別されているので、「上る」は「あがる」と読みます。(例「ふくれ上る」、「立ち上ることができぬ」)


  • 猛勢一挙

「もうせい」を主、「もうぜい」を副とする国語辞典が多い。ちなみに四字熟語ではありません。


  • 先き

誤字ではありません。同時代の数多くの作品に登場します。


  • 飛鳥

「ひちょう」。「あすか」は地名なので。


  • 草原

「くさはら」がよい。「そうげん」は一面のくさはらを指しますから、路傍には適しません。


  • 稀代

「きたい」を主、「きだい」を副とする国語辞典が多い。


  • 給う

ふりがなを振るなら「たもう」です。「タモー」と発音してください。なぜ「たまう」ではないのかという説明をするとファック長くなるので割愛します。


  • 悪徳者

太宰がよく用いる表現で、ほかの文学作品ではほとんど見かけないので難しい。これ完全に私の感覚なのですが、性格を表す言葉は「〇〇もの」、役割を表す言葉は「〇〇しゃ」って言いませんか。「悪性者(あくしょうもの)」とか。


  • 【新】前方の川を、 → 【女】前方の川を。
  • 【女】めくらめっぽう獅子奮迅 → 【光】獅子奮迅
  • 【新】私には、いのちの → 【女】私にはいのちの
  • 【新】気の毒だが、 → 【女】気の毒だが
  • 【新】たちまち → 【女】たちまち、
  • 【女】三人 → 【富】二人
  • 【新】これが私の → 【女】これが、私の
  • 【女】羊も居る → 【富】羊もゐる



場面4 復活、刑場

  • 疾風
ふりがな文庫では「しっぷう」47.4%、「はやて」45.3%と半々でした。これ本当にどっちでもいいと思います。

  • 歔欷
常用では「きょき」です。「歔欷く」は「すすりなく」ですが、この時代は「歔欷」だけで「すすりなき」とも読みました。太宰の他の作品では、『火の鳥』では「すすりなきの声」ですし、『二十世紀旗手』では「きょきの声」なので、これも本当にどちらとも言えません。

  • (古伝説と、シルレルの詩から。)
教科書では省かれることもあります。あっていいと思うけどなあ。

  • 【新】期待してくれる → 【女】期待してくれてゐる
  • 【新】お詫び、なぞと → 【女】お詫び、などと
  • 【新】ゼウスよ、 → 【女】ゼウスよ。
  • 【新】あなたのお友達 → 【女】貴方のお友達
  • 【新】もつと大きい大きいもの → 【女】もつと恐ろしく大きいもの
  • 【新】何かしらの大きな力 → 【女】わけのわからぬ大きな力
  • 【新】気が付かない → 【女】気がつかない
  • 【新】猛然と群衆を掻きわけ → 【女】先刻、濁流を泳いだやうに群衆を掻きわけ、掻きわけ
  • 【新】と精一ぱいに → 【女】と、かすれた声で精一ぱいに
  • 【新】わしも仲間に → 【女】わしをも仲間に


感想

はい、というわけでね。『走れメロス』の本文異同と漢字の読みの指針をやってみたわけですけども。資料集めからチェックから執筆から、数十時間で済みました。昭和の名文なんて資料残りまくってて余裕ですね! っていうか完全に先行研究してくださっている人や、データベースを作ってくださっている人たちのおかげです。本当にありがとうございます。
この記事も、メロスを朗読せんとする人の助けになればうれしいです。