偏見について考えてみた My thoughts on prejudice

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「差別や偏見をなくそう」とか「いわれのない偏見に苦しむ人たち」とか言われます。私たちは普段、偏見ってだめなんだろうな、偏見はなくさなきゃいけないんだな、そう思いながら生活しています。



でも、偏見って何?と改めて聞かれると、はっきり答えられないことに気が付きました。

偏見をなくすためには、まず、偏見とは何なのかをきちんと考える必要があるでしょう。これは概念なので、もしかすると「愛情って何?」という問いと同じくらい、共通の定義が難しいことなのかもしれません。

しかし少なくとも、自分の中のイメージを具体的にしておくのは大切なことだと思います。そうでないと、世間で偏見と言われているから偏見、みんなが気にしてないから偏見じゃない……と流されて、自分でも意図しないうちに人を傷つけてしまうかもしれないので。





偏見のイメージ

偏見と聞いて、みなさんのイメージはどのようなものですか。直感的に私がイメージしたのは、「女性がたくさん入った理事会は時間がかかる」のような、無根拠ステレオタイプレッテル貼りでした。

あながち間違ってはいないような気もしますが、かといって、じゃあ根拠があればいいのか、最新の感覚なら偏見ではないのか……と問われれば、はっきりと答えられません。

こういうときは、具体的な例をいくつも挙げてみます。感覚的に偏見かそうでないかをジャッジしたあと、どうして自分はそう思ったのかを検証してみるのです。やってみましょう。


みなさんも、自分の感覚で偏見かそうではないか考えてみてくださいね。


サンプルA

  1. 犬はかわいい
  2. 山田さんは幼い子の面倒見がよいから、私は彼が好きだ
  3. 女性は議論に向かない
  4. 女性は論理的に考えることが苦手なので、議論に向かない
  5. 男性が化粧をするのはおかしい
  6. 公共の場所を裸で歩くのはおかしい
  7. 男性は賃金労働、女性は家事育児に勤めるべきだ
  8. 男性は賃金労働、女性は家事育児というくくりに縛られてはいけない
  9. 外国人労働者の仕事は雑だ
  10. 私の個人的な経験によれば、外国人労働者の仕事はいずれも雑だった




……1,2は偏見じゃないよなあ。

3,4は事実無根で話にならないけど、言う人はいるって感じ。

5は偏見って感じがする。感覚が古いもん。6は常識でしょ。

7もステレオタイプな偏見だから、8に賛成だね。

9はひどい決めつけ。……だけど私もそう思っちゃうことある。

10はなんかもやもやするけど、本人がそうだったって言ってるしなあ。


というわけで、イメージだけで決めると、


3,4,5,7,9 …… 偏見

1,2,6,8   …… 偏見とはいえない

10         …… 微妙


って感じでした。

やっぱり私の感覚には、「事実無根」とか、「古い・ステレオタイプ」とか、「決めつけ」とかがキーワードになってるっぽいです。


ただ、考えていて強烈に感じたのは、「犬はかわいい」と「女性は議論に向かない」って何が違うんだ?ってことです。どっちも根拠はないし、決めつけには違いない。ポジティブかネガティブかってことかなあ? うーん。

それに「男性が化粧をするのはおかしい」ってのと、「公共の場所を裸で歩くのはおかしい」というのもすごく似ています。違うのは法律で禁止されているかどうかだけど、偏見かどうかは法律で決めることじゃないですよね。とすると、多くの人がいいと思うかどうか? あれ、結局マジョリティの意見なら偏見じゃないってこと? それはだめじゃない?

さらに、「男性は賃金労働、女性は家事育児に勤めるべきだ」と「男性は賃金労働、女性は家事育児というくくりに縛られてはいけない」は、論理的には同価値に思えます。昔の価値観と今の価値観という違いしかありません。古い考え方は偏見で、新しくてスタンダードな考え方は偏見じゃないといえるのでしょうか。


新しい疑問とキーワードが湧いてきたので、それぞれをさらに検証してみようと思います。





検証1 決めつけ・レッテル貼りについて

私の感覚では、どうも「決めつけ・レッテル貼り」であるということが、偏見に深く関係しているようです。「決めつけ・レッテル貼り」とは、すなわちある集団の性質を一律にみなすことです。逆に、対象がひとつであれば偏見にはならないということかもしれません。そういうわけで、対象の個数に注目してさらにサンプルを挙げてみました。


サンプルB

  1. このリンゴは赤い
  2. すべてのリンゴは赤い
  3. 田中さんは足が速い
  4. アフリカ人はみな足が速い
  5. アフリカ人はみな学力が低い


5の「アフリカ人はみな学力が低い」というのは、完全に偏見だと感じます。すごくネガティブですし。でも待てよ、「4.アフリカ人はみな足が速い」とか勝手に決めつけられてもムカつきます。「お前大阪出身なの? 何かおもしろいことやってよ!」って言われたら腹が立ちますものね。それに対して、対象をひとつにしぼった「3.田中さんは足が速い」というのは、事実かどうかは別として、偏見という感じはしません。




この構造をよりシンプルに表したのが、「1.このリンゴは赤い」と「2.リンゴはすべて赤い」の比較です。

あるリンゴを見て、万人が「このリンゴは赤い」と思うとは限りません。けれど少なくとも、発言者がそう思っているということは確かです。仮にめちゃめちゃ青いリンゴを見て「このリンゴは赤い」と言っている人がいたとしても、それは単に色の認識が人と違うだけで、偏見ではありません。

いっぽう「リンゴはすべて赤い」というのは偏見のような印象を受けます。「アフリカ人はみな学力が低い」と決めつけているのと構造的に変わりません。どうやら、偏見かどうかは、ネガティブかポジティブか、あるいは事実かどうかとも関係がないようです。ある集団の性質を一律にみなすということが重要だといえそうです。


わかったこと

  • 内容がポジティブかネガティブかは関係ない
  • 事実かどうかは関係ない
  • ある集団の性質を一律にみなすことが重要





「犬はかわいい」問題


ここへきて、サンプルAで挙げた「犬はかわいい」問題が残ってしまいました。どう見ても不特定多数の集団を対象として、その性質を一律にみなしているというのに、あまり偏見という印象をうけません。「犬が好きなんだよね~」という人に「それは偏見だろ!」とつっこむ人がいたらかなり心配になります。


サンプルC

  1. 犬はかわいい
  2. 犬が好きだ
  3. 犬が嫌いだ
  4. 犬は吠える
  5. 犬は利口だ


1.2.3は偏見じゃない気がする。4.5はなんとなく、吠えない犬もいるし……偏見っていうか言い過ぎ?みたいな感じがします。何が違うんでしょう。うーん…


あっ!

これはもしかすると、「かわいい」というのが主観的な性質だからではないでしょうか。「かわいい」の基準は人によってまちまちです。だからレッテル貼り・決めつけにはなりにくい。「吠える」かどうかは明確ですし、「利口」というのもある程度は実験などで証明ができるので、どちらかというと客観的な性質だと言えます。


こう考えると、先程の疑問である「犬はかわいい」と「女性は議論に向かない」の違いが見えてきます。「議論に向く・向かない」は基準が人によってぶれにくい客観的な性質だと言えますから、レッテル貼りになってしまいます。

どうやら、「好きだ」とか「かわいい」とか、あとたぶん「おいしい」とか、基準が主観的な表現は偏見になりにくいようです。「嫌い」や「憎い」でも同じことが言えそうです。たとえば「虫が嫌い」というのは、了見が狭いとは言えるかもしれませんが、偏見と言うのは違いますよね。


わかったこと

  • 基準が主観的な表現は偏見になりにくい





「オタクはキモい」は偏見ではないのか


「基準が主観的な表現は偏見にならない」って自分で言っておいて、すぐに「え、マジで?」と自問しました。だって主観的な表現で「オタクはキモい」とか「日本人は下品」とか「高卒とは話したくない」とか言ったら、偏見の塊じゃないですか。


ちょっと考えて、これには答えが出ました。これらのコメントが偏見だと感じるのは、偏見に基づいた発言だと予想できるからです。


どういうことかというと、


すべてのオタクはファッションセンスがゼロで不潔で話し方のくせが独特で、私には理解できない趣味に没頭しているのでキモい。



すべてのオタクはファッションセンスがゼロで不潔で話し方のくせが独特で、私には理解できない趣味に没頭している


という部分が偏見。しかし省略されている。



「オタクはキモい」というコメント自体は主観的な表現なので(侮蔑ではあるが)偏見ではない。しかし偏見に基づいた発言なので、それ自体が偏見として認識される。



ということだと説明できます。


わかったこと

  • 偏見に基づいた発言は、それ自体が偏見





「事実を述べただけ」という詭弁


「偏見に基づいた発言は、それ自体が偏見」という結論を得て、これまでもやもやしていたことがひとつすっきりしました。それは、「これは偏見ではない。単に事実を述べただけだ」というタイプの言論です。


「アメリカでは黒人の犯罪率が高い」

という発言があり、これを裏付ける調査結果が存在するとします。その場合、この発言は嘘ではありません。人の秘密を暴露したわけでもないので、名誉毀損とも言えない。発言者は、「これは事実を述べただけだ。偏見ではない」と言っていますが、どうにも悪意を感じます。

ここでは、発言そのものの内容に注目するのではなく、発言者が言わんとしていることに注目すべきです。同じ発言でも、発言者が「黒人の犯罪率が高い(ゆえに経済格差を解消すべきだ)」と言おうとしているのか、それとも「黒人の犯罪率が高い(ゆえにすべての黒人は危険な思想をもっている)」と言おうとしているのかを、より気をつけて聞き取らなくてはなりません。


これで、サンプルAの「10.私の個人的な経験によれば、外国人労働者の仕事はいずれも雑だった」というのが、なぜ微妙だと感じられたのかがわかりました。このコメント自体は、対象が不特定多数ではないので偏見とは言えません。ですが、発言者が「ゆえに、すべての外国人労働者の仕事は雑だ」と言おうとしている可能性が高い。私が微妙だと感じたのは、この言外の偏見を感じ取ったからだったのです。





検証2 根拠について


次に、事実無根かどうかが、偏見かどうかと関係しているのかどうか確かめたいと思います。考えつくパターンとして、

  1. 根拠なし
  2. 主観的な根拠
  3. 客観的な根拠

でサンプルを出しましょう。

結論はすべて、ある集団の性質を一律にみなすものとします。


サンプルD

  1. 女性は議論に向かない
  2. 女性は馬鹿だから、女性は議論に向かない
  3. 平均的に女性は男性よりも筋肉が発達していないため、女性は肉体労働に向かない


あ、わかりました。関係ねーやこれ。偏見かどうかは、根拠の有無や性質に関係しないようです。というか3にいたっては論理が飛躍していますね。根拠では平均的な能力のことを言っているのに、結論では「女性は」とひとくくりにしています。


わかったこと

  • 根拠の有無や正しさは関係ない





検証3 この記事長くね?



長いね。






検証4 ステレオタイプ・古さ・新しさ


言説の古さって、偏見かどうかに関係しているのでしょうか。

ここで言う「古い」というのは、時代遅れ・ステレオタイプという意味です。歴史が長く今も重んじられているという意味ではないですよ。たとえばこういうやつ。


サンプルE

  • 男は賃金労働で家族を養うべきだ
  • 女は家事労働で女性を守るべきだ
  • オタクは性犯罪者予備軍
  • イスラムはテロも辞さない危険思想
  • 健全な精神は健全な肉体に宿る


わかりやすくステレオタイプな偏見ですね。でもこれ、少し前には普通に支持を得ていた言説なんですよね。今でも言う人は言うし、言わないまでも思っている人はけっこういる気がする。


これらはかつて多くの人に受け入れられていた考えであり、言い換えれば「常識」でした。女性が学問で身を立てるのが今よりも格段に困難だった時代、学ぶ女性は偏見に苦しめられていた……と現代の私たちは思います。でもそれは後世の感想であって、本当は常識に苦しめられていたと言えるのではないでしょうか。そしてその方が、何倍もやっかいです。

このようなことは、時代の違いばかりでなく、地域や信仰などによっても見られます。たとえば同性愛に対する考え方は、国や宗教によって現在でも大きく差があります。異性婚と同等の権利が保証されている地域もあれば、死罪となる場所もあるのです。



これらの事実から、ひとつの結論が導き出されます。

すなわち、私たちが常識だと思っていることでも、時代や地域が異なれば偏見たりうるということです。


考えてみれば「偏見」とは不思議な言葉です。「偏った見方」。まるで「偏っていない見方」があるかのようですが、残念ながらそんなものはありゃしません。そういう意味では、すべての見方・考え方は偏見であると言えるでしょう。ですが私たちは普段そのことに気づかずに、自分に都合のいい考え方を「常識」と呼び、その「常識」に外れた見方を「偏見」と呼んでいるに過ぎないのです。




わかったこと

  • 人は、自分にとっての常識は偏見ではないと思っている
  • 人は、自分にとっての常識から外れた見方を偏見と呼ぶ
  • 自分の常識は、別の人にとっての偏見




まとめ



  • 偏見とは、ある集団の性質を一律にみなすこと
  • 内容がネガティブかポジティブか、または事実であるかは関係ない
  • 根拠の有無・正しさには関係ない
  • 言外の偏見に基づく発言は、偏見
  • 自分にとっての常識は、別の人にとっての偏見
  • 「好き」など主観的な性質は偏見になりにくい


検証を経て(といっても自分の感覚と向き合っただけですが)、さまざまな発見がありました。とくに大きな発見だったのは、「自分にとっての常識は、別の人にとっての偏見」だったということです。この言葉自体はいろいろな本で読んだことがあったのですが、納得したというか実感したというか、理解できたというか、そんな感じです。


サンプルAにおける「6.公共の場所を裸で歩くのはおかしい」や「8.男性は賃金労働、女性は家事育児というくくりに縛られてはいけない」という言説も、単に私にとっての常識というだけで、偏見には違いないということがわかりました。

「偏見をなくすべき」という言葉の意味は、私にとってより大きなものとなりました。通常は、「少数の人々に対する、事実と異なる見方をやめよう」という文脈で言われます。もちろんそれもあると同時に、「自分の常識を疑い、多様な価値観を理解しよう」という、認識についての戒めとも受け取れるようになったのです。



ところで、勘違いしてはいけないことがあります。偏見はなくすべきですが、そのためにルールをなくせとか、常識を否定しろとかいうと、おかしなことになってしまいます。


つまり

「公共の場を裸で歩くのはおかしい」ってのが偏見? じゃあ偏見をなくすために、公共の場を裸で歩けってのか!?

ってのはまるで見当外れです。


その常識が、絶対ではないと考えてほしいということです。多くの人にとって常識でも、全員が幸せであるとは限らない。私たちの常識によって苦しんでいる人がいるかもしれないということを、いつも忘れないでいてほしい。

そして、いろいろな立場のことを考えたうえで、公共の福祉の原則に照らしてルールを定めるべきでしょう。