2018年10月には、「自己責任論」という言葉がさまざまなメディアで取り上げられました。
自己責任論とは、
国が警告する危険な地域に行って捕まった人を、国が助ける必要はない。
という主張です。
これはあまりにばかげた話です。もしそうなら、
みんな当人の責任だから命を救わなくていいという話でしょうか。
これは、危険な地域で民間人が取材を行うことへの賛否や、その法整備について論じることとはまったく別次元の問題です。別次元の問題なのに、ごちゃ混ぜに取り扱われています。
みたいな話と同列に、
という声が大真面目に取り上げられ、街頭でリポーターが「あなたはどう思いますか」と尋ねているのです。非情に空虚な気持ちになります。
SNS以前は、大勢の人に意見を拡散するにはパワーが必要でした。著名人でなければ、新聞に投書するか地道に市民運動を起こすくらいしか意思を拡散する手段がありませんでした。
SNSのおかげで、一部の人の意見が大多数の目にさらされることが、たいへん容易になりました。これは良い意味でも悪い意味でも革命的なことです。少数の困っている人の声を聞けるようになるいっぽうで、少数の心無い人のヘイトスピーチも聞こえるようになったのです。
そして今、その両方が無差別にメディアに取り上げられています。
また昨今、ツイッターで炎上した言説がそのままニュース番組で報道されているのを目にします。中には、「それは本当に全国ニュースで扱うべき問題なの?」と首をかしげるものもあります。
たとえば「おでんツンツン男」や、「売り物のぬいぐるみにキス」の報道。番組では顔にモザイクがかかっていますが、SNSやYouTube上ではそのままですから、個人の特定が可能です。もちろん商品を損壊する行為は犯罪ですが、テレビで報道されるほどの凶悪性・特殊性がある事件だとは思えません。実質顔出しで全国報道することで、必要以上の罰を与えているように感じます。
また、複数の番組が扱えばそこに競争が生じます。「ミスター慶応の準強制性交」では、祖父の自宅へまで押しかける取材に、倫理の欠如を覚えました。これではSNSの悪習である、「こいつが今日の生贄だよ! みんなで干からびるまでぶっ叩こうね!」となんら変わらないではありませんか。
今回の安田純平さん解放にまつわる報道では、SNS発の「自己責任」という無責任なヘイトスピーチが拡散され、それをテレビなどのメディアが「自己責任論」と報じたことにより、
報道を目にした私たちが建設的に議論できるように、問題を整理するとともに、SNSに追随することなく意見を発することが、責任あるメディアの姿勢であると言えるでしょう。
今さらだけどざっくり説明
2015年6月、フリージャーナリストの安田純平さんがシリアで消息を絶った。翌2016年以降、安田さんと見られる人物の映像が報じられ、武装勢力によって拘束されている可能性が高まる。
2018年10月23日、政府は、安田さんと見られる人物がトルコ政府に保護されたと発表した。翌24日に本人と確認。
以降、ツイッターなどのSNSにおいて、ハッシュタグ「自己責任」を付けた投稿が多数なされる。
これを受けて、10月後半、ニュース番組でさかんに「自己責任論」というキーワードをもとに議論が交わされている。
2015年6月、フリージャーナリストの安田純平さんがシリアで消息を絶った。翌2016年以降、安田さんと見られる人物の映像が報じられ、武装勢力によって拘束されている可能性が高まる。
2018年10月23日、政府は、安田さんと見られる人物がトルコ政府に保護されたと発表した。翌24日に本人と確認。
以降、ツイッターなどのSNSにおいて、ハッシュタグ「自己責任」を付けた投稿が多数なされる。
これを受けて、10月後半、ニュース番組でさかんに「自己責任論」というキーワードをもとに議論が交わされている。
自己責任論とは、
国が警告する危険な地域に行って捕まった人を、国が助ける必要はない。
という主張です。
これはあまりにばかげた話です。もしそうなら、
- 自殺未遂をした人は治療しなくていい。
- 飲酒運転の末に事故を起こした人は路上に放置すべき。
- 被爆の恐れのある地域で暮らしている人は……
- 台風の中、外出した人は……
みんな当人の責任だから命を救わなくていいという話でしょうか。
これは、危険な地域で民間人が取材を行うことへの賛否や、その法整備について論じることとはまったく別次元の問題です。別次元の問題なのに、ごちゃ混ぜに取り扱われています。
みたいな話と同列に、
という声が大真面目に取り上げられ、街頭でリポーターが「あなたはどう思いますか」と尋ねているのです。非情に空虚な気持ちになります。
SNSに踊らされるその他メディア
「自己責任論」は、議論するに値しない、単なるヘイトスピーチです。なぜこのような言説が、さも一定数の支持を得ているかのように取り上げられてしまったのでしょうか。その原因は、メディアがSNSの代弁者と化すことにあります。SNS以前は、大勢の人に意見を拡散するにはパワーが必要でした。著名人でなければ、新聞に投書するか地道に市民運動を起こすくらいしか意思を拡散する手段がありませんでした。
SNSのおかげで、一部の人の意見が大多数の目にさらされることが、たいへん容易になりました。これは良い意味でも悪い意味でも革命的なことです。少数の困っている人の声を聞けるようになるいっぽうで、少数の心無い人のヘイトスピーチも聞こえるようになったのです。
そして今、その両方が無差別にメディアに取り上げられています。
また昨今、ツイッターで炎上した言説がそのままニュース番組で報道されているのを目にします。中には、「それは本当に全国ニュースで扱うべき問題なの?」と首をかしげるものもあります。
たとえば「おでんツンツン男」や、「売り物のぬいぐるみにキス」の報道。番組では顔にモザイクがかかっていますが、SNSやYouTube上ではそのままですから、個人の特定が可能です。もちろん商品を損壊する行為は犯罪ですが、テレビで報道されるほどの凶悪性・特殊性がある事件だとは思えません。実質顔出しで全国報道することで、必要以上の罰を与えているように感じます。
また、複数の番組が扱えばそこに競争が生じます。「ミスター慶応の準強制性交」では、祖父の自宅へまで押しかける取材に、倫理の欠如を覚えました。これではSNSの悪習である、「こいつが今日の生贄だよ! みんなで干からびるまでぶっ叩こうね!」となんら変わらないではありませんか。
メディアがもつべきメディアリテラシー
ニュース番組などのメディアは、SNSという新メディアの特性を理解して、そこから発せられる情報を扱うべきです。もっとわかりやすく言いましょう。無責任に叩いてるだけの意見は無視するべきです。インターネット黎明期から重要とされてきた「スルースキル」を、今度は個人ではなくメディアや企業が身に付けるべき時代が来ています。今回の安田純平さん解放にまつわる報道では、SNS発の「自己責任」という無責任なヘイトスピーチが拡散され、それをテレビなどのメディアが「自己責任論」と報じたことにより、
- 政治・国際レベルの議論
- 安田さん個人に対する感想
- 人命軽視の中傷
報道を目にした私たちが建設的に議論できるように、問題を整理するとともに、SNSに追随することなく意見を発することが、責任あるメディアの姿勢であると言えるでしょう。