私は運動が嫌いです。
いえ、正確に言うと、運動すること自体はそこまで嫌ではありません。私が嫌いなのは、運動の苦手な人が見下される風潮です。
それは学生時代において非常に顕著です。小学校では、運動能力の高さはそのままスクールカーストに直結し、ある時にはいじめへとつながります。運動ができることに比べれば、勉強ができることなどに何の価値もありません。日本の学校教育を受けてきた人なら、経験的にその事実に異論はないことでしょう。
ひねくれた少年時代の話
私の運動能力は、同年代の男性に比して最低に位置します。おそらくどの競技においても成績は下位10%以内でしょう。
運動能力が低いことによって、私は常に見下され、無神経な言葉を浴びせられ続けてきました。
普通の子供ならば、この状況を変えようとしてスポーツを始めるのかもしれません。しかし少年時代の私は、そうしようとは考えませんでした。それでは結局、運動能力をかさに着て人を見下す人間の価値観に従ったことになると思ったからです。
そこで少年時代の私は、「今後、運動は一切しない。かわりに運動以外のすべての分野で、僕を馬鹿にした奴らに勝つ」と決意しました。歪んだ怒りによって私の成績は向上し、通知表において「3」は保健体育のみとなりました。学業での成功は自信となり、その他のさまざまな分野にも、前向きな気持ちで努力することができるようになりました。今ではあの粗暴な同級生たちにも、自分の運動能力の低さにも感謝しています。
しかし、さまざまな分野で努力した結果、ある事実がより明らかになってきました。それは、運動能力の高さが、ほかの能力が高いことよりも、はるかに重要視されているということでした。いくら他の能力を伸ばしたところで、運動が苦手なことで一段低く見られる状況は変わりませんでした。
学生時代に見られる価値観の偏り
「運動能力」と言いましたが、重要なのは「スポーツの能力」です。それも、野球・サッカー・徒競走が得意であることに価値観の偏重が見られます。
さらにそれは学生時代において顕著です。小学校が最高で、高校を卒業すると、急激に価値観の多様化が生じる傾向にあります。
小学校では、
走るのが速いやつ=圧倒的勝者
学校教育の観点から述べて、この現状には問題があります。
現在の学校教育では、多様な価値観を認め合い、子供の個性を伸長することを目標にしています。子供の自己肯定感を高めるのも重要な課題の一つです。
スポーツが得意な子供が評価されるのはもちろん良いことでしょう。
教師としての経験ですが、スポーツが得意な生徒は、自己肯定感が高い傾向にあります。幼い時から繰り返し評価された経験が、自信につながっているのです。ほかのことが多少苦手でも、「自分は運動ができる」というアイデンティティによって、自分を認めることができています。
しかしそのいっぽうで、スポーツが苦手な子供には、自己肯定感の低い傾向が見て取れます。ほかのことが得意であっても、スポーツが苦手なことで馬鹿にされたり、いじめられたりするためです。私が担任したある生徒は、音楽やコンピュータについて高い才能があるにも関わらず、自己否定を繰り返していました。
なぜこのようなことが起こってしまうのでしょうか。
認められる機会とけなされる機会
人間は自分の能力を認められると自己肯定感が高まり、けなされるとそれが失われます。
この原理に照らして考えれば、学校教育の問題点が明らかになります。
すなわち、現在の学校教育は、以下のような状態にあると仮定することができます。
もちろん、原因のすべてが学校教育にあるわけではないでしょう。
大人よりも子供の方が、体を動かして遊ぶ機会が多く、そこで活躍できることの重要性が高いのは当然のことです。また、多様な価値観を認めるためには、経験と脳の発達が必要になります。子供達の価値観が単一的になるのは仕方のないことでもあります。
だからこそ、少しでも子供たちが多様な価値観を認め、個性を伸ばすことができるように、学校は努力する責任があります。上記のような状態の解消に向けて努力するべきです。
先ほど仮定した状態が事実と合っているかどうか検証するため、教科ごとに「認められる」「けなされる」要因について比較してみましょう。
表にすると、体育という教科の特殊性が浮き彫りになります。
もちろん、体を動かすという教科の特性上、他の生徒から見えやすいという事実は変えようがありません。大切なのは、そのような教科の特性を指導者や文科省が理解し、前述の問題を解消していくことです。
体育の歩み寄り
では、実際に授業をどのように変えていけばよいのでしょうか。
たとえば、私は体育の授業において、競技・競争・試合といった、勝敗を決める内容が多すぎると感じます。勝負に熱くなるあまり、「のび太のせいで負けたんだ」という感情や言葉も出てくるでしょう。
現在の学校教育では、過度に競争心をあおる指導を減らそうという考え方が普及しています。
私は競争を減らした方がいいとも、増やした方がいいとも思っていませんが、「体育だけは競争中心でよい」という幻想は間違っていると思います。体育で勝敗を決めるなら、国語でも勝敗を決めるべきだし、美術で競争させないなら、体育でも競争を抑えるべきです。
それでも、「スポーツなのだから、勝敗がつくのは仕方がない」とお思いでしょうか。それこそが固定観念です。体育という教科の目標は、競技スポーツの上達ではありません。小学校の学習指導要領では、体育の目標を次のように示しています。
心と体を一体としてとらえ,適切な運動の経験と健康・安全についての理解を通して,生涯にわたって運動に親しむ資質や能力の基礎を育てるとともに健康の保持増進と体力の向上を図り,楽しく明るい生活を営む態度を育てる。
つまり、体育の目標は、
- 運動の経験をする
- 健康・安全への理解を深める
- 生涯にわたって運動に親しめるようにする
- 健康と体力を向上させて楽しく生活できるようにする
であり、競技の上達ではありません。
サッカー、野球、バスケットボールなど、チームスポーツで試合をする指導が続けば、苦手な生徒は負け続け、責められ続けるわけですから、運動が嫌いになります。これでは「生涯にわたって運動に親しめるようにする」という目標が達成できません。
また、鉄棒、マット運動、走り高跳び、跳び箱などは、勝敗こそつかないものの、成否によって評価される競技です。できたか、できなかったかの運動であり、苦手な子供にとっては「できなかった」経験が強く残ります。
運動が苦手な生徒の意欲を高めることをより重視して、授業に取り入れる運動を見直しましょう。
近年取り入れられたダンスは、勝敗を求めず、かつ協力して行うことができる優れた運動です。ほかにも選択肢は多くあります。スケートボードやチアリーディング、カヌー、ボルダリングなど、条件は難しいかもしれませんが、これらは諸外国の体育に取り入れられています。
私はなにも、勝負そのものを無くそうと提言してはいません。ただし、勝負を利用して教育する方法は、メリットの大きさとともにデメリットも大きいことを理解して、他教科とのバランスを考えて運用するべきです。
他教科の歩み寄り
誤解してはならないのは、競走を徹底的に排除する教育観はかえって危険だということです。人は切磋琢磨することでより成長できます。それが学校の本質ではないでしょうか。
私の国語の授業では、一斉に教授する時間もありますが、一部の生徒が活躍する時間もあります。
プレゼンテーションや模擬面接を、全員の前で行うこともあります。ディベートや百人一首では勝敗も生まれます。さらに板書は基本的に生徒の発言によって構成されます。
これらの形態が、おそらく一般的な国語の授業よりもかなり多く取り入れられていると思います。とくに、プレゼンテーション、ポスターセッション、レポート発表などは圧倒的に多いでしょう。
このような形態の授業は、黙っていれば過ぎ去る授業と異なり、個人の実力が他の生徒から認識されます。ともすれば国語嫌いを生んでしまう可能性もありますが、「体育はできなくても、国語ができる!」という自己肯定感を生むことができます。
体育以外の教科でも、子供の活躍の場を意識して設けましょう。そうすることで、子供が自信をもち、多様な価値を認められるようになります。
運動会では、当然のように個人の順位が発表されます。しかも最下位まで! そんなことが起こるのは学校教育において運動会とマラソン大会だけです。音楽会でも出ません。定期考査でも出ません。学芸会でも展覧会でも出ません。
かつては、定期考査の順位が掲示されるのは普通の事でした。合計点まで掲示された学校もあったことでしょう。公立の中学校では校内で模試を実施し、そこで出される偏差値が大きな意味をもっていました。そうして受験競争は白熱し、学力の高さ、試験の結果が人間の価値を表すかのように扱われていました。
これは学校ばかりの責任ではありません。社会全体が学歴信仰に飲まれ、子供たちに単一の価値観を押し付けたのです。
その結果、学力で成果を出せない子供たちは、「落ちこぼれ」のレッテルを張られ、自分の価値を見失い、不登校になったり、非行に走ったりするようになりました。
これは、現在の体育や運動会とまったく同じ図式です。
過度な競争や、価値観の偏りが招くこうした事態を反省し、現在の学校では多様な価値観を認めるようになりました。1980年のことです。中学校の進路指導における偏差値の廃止は、さらに12年後の1992年のことでした。
このように教育界全体が動いていく中で、体育や運動会だけが旧時代的な競争主義を貫いています。もちろん体育の授業も変化していますが、他教科からは完全に浮いています。
運動会に至っては、ますます多様性が失われてきています。
危険性が指摘され、組体操も騎馬戦もなくなりました。教員の超多忙化と授業時数の増加により、練習や準備に時間のかかる演技種目や障害物競走もどんどん実施できなくなっています。行進や応援団を指導する時間もありません。残るのは、100m走、200m走、1500m走、全員リレー、選抜リレー……現代の運動会はさながら徒競走大会です。
アメリカの"Physical education"では、州や学校によってかなりの差があるものの、教師が提供する体を使った遊びを行うことが多いそうです。ドイツの"Sport"では水泳がありますが、競泳のためのクロールではなく、溺れないための平泳ぎだけを習います。イギリスの学校には、器械体操の器具がないそうです。
フランスにもドイツにも、運動会はありません。アメリカの"Field day"は、運動会というよりは体育の日という印象で、多様なアスレチックを楽しみます。
また、競技スポーツを学ぶ場は、学校ではなく、校外のクラブです。
どの国の教育が良い、悪い、ということではありませんが、日本の体育は圧倒的に競技ベースであることがわかります。そしてそのことが現在はマイナスになっているというのが私の主張です。
日本国民が富国強兵・国威発揚を求めるなら、かつてのように学力でも体力でも競争を強いればよいでしょう。そうではなく、個性と多様な価値観を認めるなら、体育だけに競技・競争をさせるのは間違っています。
歴史に研磨され、他国に誇れる精神性をもっていると確信しています。
堂々たる入場行進。胸を張って歩くことを学ぶ機会は他にないでしょう。
吹奏楽部の迫力あるマーチング。
選手宣誓によって始まる、神事にも似た潔白さ。
一糸乱れぬラジオ体操。全校生徒の一体感。
実況は放送委員の見せ所。
学年種目。数週間の練習が実を結び、勝っても負けても、クラスの結束が強まる。
リレー。ひとつのバトンをつないで、全員が自分にできることを尽くす。仲間はそれを力の限り応援する。
一・二年生は三年生の真剣さ、全力の姿、結束する美しさに憧れる。
勝敗は着く。しかし、それ以上に大切なものがみんなの胸に残る。
校歌、絶唱。すべての思いが空へと消えていく。
この素晴らしい行事を、いつまでも素晴らしいまま続けていきたいと思うのです。
そのために、体育をとりまく環境を、より健全にしていきましょう。
体育は、運動の苦手な子が親しめるように。
他教科は、生徒が周りから認められるように。
行事を充実させられる時数確保と教育内容の精選。
競技スポーツは学校外、学校では基礎運動という分担に……
がんばれ、運動会。
くたばれ運動会
これまで述べた考え方に基づき、学校教育において私がもっともイカれていると思うのが、運動会です。運動会では、当然のように個人の順位が発表されます。しかも最下位まで! そんなことが起こるのは学校教育において運動会とマラソン大会だけです。音楽会でも出ません。定期考査でも出ません。学芸会でも展覧会でも出ません。
かつては、定期考査の順位が掲示されるのは普通の事でした。合計点まで掲示された学校もあったことでしょう。公立の中学校では校内で模試を実施し、そこで出される偏差値が大きな意味をもっていました。そうして受験競争は白熱し、学力の高さ、試験の結果が人間の価値を表すかのように扱われていました。
これは学校ばかりの責任ではありません。社会全体が学歴信仰に飲まれ、子供たちに単一の価値観を押し付けたのです。
その結果、学力で成果を出せない子供たちは、「落ちこぼれ」のレッテルを張られ、自分の価値を見失い、不登校になったり、非行に走ったりするようになりました。
これは、現在の体育や運動会とまったく同じ図式です。
過度な競争や、価値観の偏りが招くこうした事態を反省し、現在の学校では多様な価値観を認めるようになりました。1980年のことです。中学校の進路指導における偏差値の廃止は、さらに12年後の1992年のことでした。
このように教育界全体が動いていく中で、体育や運動会だけが旧時代的な競争主義を貫いています。もちろん体育の授業も変化していますが、他教科からは完全に浮いています。
運動会に至っては、ますます多様性が失われてきています。
危険性が指摘され、組体操も騎馬戦もなくなりました。教員の超多忙化と授業時数の増加により、練習や準備に時間のかかる演技種目や障害物競走もどんどん実施できなくなっています。行進や応援団を指導する時間もありません。残るのは、100m走、200m走、1500m走、全員リレー、選抜リレー……現代の運動会はさながら徒競走大会です。
諸外国の体育と運動会
参考までに、欧米諸国の小学校体育について、かなり軽めに調べてみました。アメリカの"Physical education"では、州や学校によってかなりの差があるものの、教師が提供する体を使った遊びを行うことが多いそうです。ドイツの"Sport"では水泳がありますが、競泳のためのクロールではなく、溺れないための平泳ぎだけを習います。イギリスの学校には、器械体操の器具がないそうです。
フランスにもドイツにも、運動会はありません。アメリカの"Field day"は、運動会というよりは体育の日という印象で、多様なアスレチックを楽しみます。
また、競技スポーツを学ぶ場は、学校ではなく、校外のクラブです。
どの国の教育が良い、悪い、ということではありませんが、日本の体育は圧倒的に競技ベースであることがわかります。そしてそのことが現在はマイナスになっているというのが私の主張です。
日本国民が富国強兵・国威発揚を求めるなら、かつてのように学力でも体力でも競争を強いればよいでしょう。そうではなく、個性と多様な価値観を認めるなら、体育だけに競技・競争をさせるのは間違っています。
がんばれ運動会
最後に。私は運動会を、とんでもなく教育的価値の高い行事だと考えています。歴史に研磨され、他国に誇れる精神性をもっていると確信しています。
堂々たる入場行進。胸を張って歩くことを学ぶ機会は他にないでしょう。
吹奏楽部の迫力あるマーチング。
選手宣誓によって始まる、神事にも似た潔白さ。
一糸乱れぬラジオ体操。全校生徒の一体感。
実況は放送委員の見せ所。
学年種目。数週間の練習が実を結び、勝っても負けても、クラスの結束が強まる。
リレー。ひとつのバトンをつないで、全員が自分にできることを尽くす。仲間はそれを力の限り応援する。
一・二年生は三年生の真剣さ、全力の姿、結束する美しさに憧れる。
勝敗は着く。しかし、それ以上に大切なものがみんなの胸に残る。
校歌、絶唱。すべての思いが空へと消えていく。
この素晴らしい行事を、いつまでも素晴らしいまま続けていきたいと思うのです。
そのために、体育をとりまく環境を、より健全にしていきましょう。
体育は、運動の苦手な子が親しめるように。
他教科は、生徒が周りから認められるように。
行事を充実させられる時数確保と教育内容の精選。
競技スポーツは学校外、学校では基礎運動という分担に……
がんばれ、運動会。