もういいよそういうの。
たまたま生まれ持った身体構造が、たまたまその時代の流行だったというだけのことで、そんなことが時として(というかしょっちゅう)本人の人格より優先して評価されるという現状に、言いようのない不快感と違和感を覚えます。自分で選択したわけじゃないのに、いいとか悪いとか言われても変えようがないじゃないですか。そういう意味で、顔や身体への評価は、主義思想への批判などとは明確に異なる性質をもちます。
もちろん、「顔がいい」と言った場合には「明るい表情がいい」だとか、「イケメン」には「性格もイケてる」の意味があるとかいうことは理解しています。また、容姿の美しさとは生得的な身体構造だけでなく、本人の努力が大きく関わっており、私もその努力には称賛を惜しみません。
しかしそれらをふまえても、人物の容姿を判断する際に、人格に起因する要素よりも生得的な身体構造を重視する風潮が強くあることは事実です。
私が嫌いなのは容姿への評価ではなく、単に「イケメン」という言葉でもなく、生得的な身体の構造を過大評価することです。「ルッキズム」とも微妙に違う考え方なのでしょうか……名前がわからん。優生思想にも近い概念なので、ここでは「優生ルッキズム」と呼ぶことにしましょう。
生得的優劣への信仰がもたらすもの
私はよく「背が高いね」と言われます。初対面の人にさえも。
褒めてくださっている、あるいはコミュニケーションを取ろうとしてくれている善意は感じますが、無知で差別的だなと感じます。最近わかったのですが、差別と悪意はあまり関係がないみたいですね。みんな善意で犬に玉ねぎとチョコレートをあげています。
男性に「背が高いね」と言うのは、「紅葉は赤くて、すみれは青くてきれいだね」と言うのとは明らかに異なる価値観です。そこに多様性への容認はありません。「男は背が(平均よりやや)高いほうがいい、背が低いのは良くない」という絶対的な考え方です。と同時に、そのような価値観を誰もが共有しているはずだという幻想と短慮を持ち合わせます。「俺が身長をコンプレックスに感じている可能性を考えないのかな……」とよく思います。
「足長ーい」、「背高いね」、「顔ちっちゃい!」、「目おっきいね」、「めっちゃ色白い」……
ぜんぶ同じことです。逆は言わないでしょう。
これが家畜なら話は別ですよ。豚は太っていたほうがいい。鯉は鮮やかなほうがいい。生まれながらに用途が決まっているからです。すると評価基準は単一になります。
しかし人間は、生まれながらにして誰かに用途を決められるものではありません。というかそのような時代を終わらせようと多くの人が努力をした結果、私たちは誰であろうとどこに生まれようと自由に生きる権利をもっているのです。
現状を歴史と見比べてみましょう。
足が長くて目が大きく色白小顔の人間が優れているという思想は、コーカソイド至上主義と何ら変わりありません。突き詰めれば優生思想、民族浄化につながる考え方だといえます。
また、「生まれながらにして優れた容姿をもつ人」を芸能界で活躍させるのが妥当であるならば、「生まれながらにして王権をもつ人」を政界で活躍させるべきでしょう。そう、王権神授説ですね。かつてはあらゆる人が、「生まれながらにもっている王権」の存在を本気で信じていました。しかしそんなものありはしなかった。現在ではあらゆる人が、「生まれながらにもっている優れた容姿」という幻想を信仰しています。それはあらゆる自由を妨げ、あらゆる差別の原因に繋がります。
美醜の評価はだめなの?
どのような身体的要素が好きで、嫌いか。
これについて、個人がどんな価値観や美意識をもっていようとも自由です。そこに善悪はありません。しかしそれを他者に伝えるときは、他の事物について語るよりも慎重になるべきでしょう。理由は前述の通りです。
「黒い頭髪が好きだ」ということを、黒い頭髪をもつ人に言うのか、白い頭髪をもつ人に言うのか、黒髪愛好家たち同士で言うのか、個人に言うのか多数に言うのか、雑誌が若者に言うのか大臣が国民に言うのか……すべて異なる意味をもちます。自分ではプラスの評価をしたつもりでも、意図せずに誰かを傷つけるということは容易にありえます。
とくに人間関係が十分にできていない相手の身体について言及することは、当然のことですが控えるべきです。が、この認識は欧米に比較して(この安直な表現嫌なんですが)、日本ではまだポピュラーとは言えません。
「背高いねー」とか「肌白いね!」とか、初対面でも普通に言ってる人いるでしょう?
これはずっと単一民族でやってきたからこそできる離れ業です。アメリカで同じこと言ったら激ヤバいことはすぐに想像できますね。そうです日本でもヤバいんですやめましょう。
事実の提示のみはよくない
あとは……やっぱり単一方向の評価というか、事実の提示だけの評価は嫌ですね。いくら仲良くなっても。つまりどういうことかというと、「美しい」、「好きだ」、「立派だ」、「似合う」などの主観的な評価はわりと好きなんですよ。その人の好みにハマったんだなってうれしいじゃないですか。逆に「白い」、「高い」、「小さい」、「細い」って事実を言われると、「当然お前もそれをいいと思ってるよね?」って価値観を押し付けられているような気持ちになってしまいます。
「声低いね」って事実だけを言われるより、「いい声だね」とか、「君の低い声が好きだよ」って言われる方が断然うれしい。あ、でも「顔がいいね」は嫌だな。これは主観ではなく単一方向の価値観を押し付けられている気がする。言葉の選択も大事ですが、やはり本質は言葉の意図だということですね。
本人が努力してることならいいね
似て非なることとして、本人が努力して獲得した身体的特徴であれば、評価されて然るべきです。この場合は、事実の提示も称賛たりえます。ボディービルダーに対して「デカイよ!」と言うのは最高の賛辞ですね。ダイエットしている人に「痩せたね」と言うのも、力士に「恰幅が良いね」と言うのも良い。……ただしこれらだって、相手の価値観と努力を理解したうえで初めて可能になる言及だということを忘れてはなりません。
発達段階と環境
こういう生得的優劣への信仰とか、単一の価値観の押しつけとかは、とくに小学校高学年~高校生くらいの年齢の子供同士のコミュニケーションにおいて顕著です。
なぜかというと、まず語彙がない。そして概念を獲得していない。自身の感情を分析する能力も育っていない。だから、「なんかあの人の顔好きだな」と思っても、なぜ自分がそのように感じたのかを分析することができないので、「顔がいい」、「顔が好き」と言うしかない。このような処理は、ある年齢までは自然なことです。
成長し経験を積むにつれて、人は語彙や概念、自己分析能力を獲得します。すると、たとえば自分にとってAさんとBさん両方の顔が好ましいと感じたとしても、それがまったく同じ感覚ではないということに気づきます。「Aさんは愛嬌のあるキャラクターとポップなメイクがマッチしていて、いつも笑顔なのがいい」、「Bさんは髪型や眉の形がシンプルでありながら、手入れされていて清潔な印象だ」……のように、分析することが可能になるのです。普段はそこまで意識してはいないかもしれませんが、おそらく聞かれれば細かく答えることができるのではないでしょうか。
もうひとつの要因は、ギャングエイジ~思春期特有の、同世代での価値観の共有です。
もちろん子供にかぎらず、私たちが仲間を作るうえで価値観を共有することはとても大切ですよね。しかしある時期の子供は、あらゆる場面で仲間に合わせようとする傾向があります。これはなぜでしょうか。
大人は所属するコミュニティが多く、そのためコミュニティごとに共有する価値観を分けることができます。仕事仲間とは、仕事に関する価値観だけを共有すればよく、趣味を合わせる必要はありませんね。趣味の合う仲間には、ネットや同好会を探せばいくらでも出会えます。また、遊びの趣味があわなくとも、考え方が似ているという理由で親しく付き合うこともあるでしょう。
いっぽう、高校生くらいまでの子供は、あまり多くのコミュニティをもっていません。近所に住む同級生と、同じ授業を受け、食事し、休み時間を過ごし、放課後は遊び、部活、塾……というように、生活のすべてを特定の人間関係に依存しています。ですから、数人の友達との結束が強まると同時に、仲間はずれになることを極度に恐れるようになります。
休み時間に親しい友人がみなサッカーに興じていたら、たとえ自分はドッジボールがやりたくてもサッカーをするしかない状況……誰にも似たような経験がありますよね。友達と同じアイドルを好きになり、同じゲームを買わなければならない。誰かが「かわいい」と言ったら、「わかる」、「それな」。生き抜くためには周りに合わせることです。
これは、村社会やカルト集団における心理状態と同様です。コミュニティは、所属する人数が少ないほど、そして外部とのつながりが希薄であるほど、価値観が単一化し、同調圧力が強化されるという法則があります。
そういうわけで、子供の価値観が狭くなりやすく、表現が単純になりやすいのは仕方のないことだといえます。子供が多様な価値観に触れ、自分を分析することができるように大人が支援をしていくことが大切です。と同時に、差別的なものの見方で他者を傷つけてしまわないように、話し合っていきたいものですね。